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神戸地方裁判所 平成7年(ワ)193号 判決

原告

植松正

右訴訟代理人弁護士

西本徹

被告

岡田武典

主文

一  被告は、原告に対し、平成七年八月一六日限り、金七〇万円及びこれに対する同月一七日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

二  被告は、原告に対し、金七万五八八七円及びうち金三万八三八七円に対する平成七年四月七日から支払済みまで、うち金三万七五〇〇円に対する同年三月二四日から支払済みまで、各年五分の割合による金員を支払え。

三  原告のその余の請求を棄却する。

四  訴訟費用はこれを一〇分し、その三を原告の負担とし、その余を被告の負担とする。

五  この判決は、第一、第二項に限り、仮に執行することができる。

事実及び理由

第一  請求

被告は、原告に対し、金一〇七万五八八七円及びうち金一〇三万八三八七円に対する平成七年一月一八日から支払済みまで、うち金三万七五〇〇円に対する同年二月一日から支払済みまで、各年五分の割合による金員を支払え。

第二  事案の概要

一  本件は、平成七年一月一七日に発生した阪神・淡路大震災により、被告から賃借していた建物(原告賃借部分はその一部)が滅失したと主張する原告が、被告に対し、次の各金員の支払を求める事案である。

1  右建物部分の賃貸借契約にともなう保証金一〇〇万円の返還請求及び右金員に対する右建物滅失の日の翌日である平成七年一月一八日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金

2  右建物部分の前払賃料及び共益費のうち、右建物滅失の日の翌日である平成七年一月一八日から同月末日までの期間に相当する金三万八三八七円の不当利得返還請求及び右金員に対する同月一八日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金

3  原告が被告から賃借していた駐車場につき、平成七年一月三〇日、右駐車場賃貸借契約が合意解約されたとして、右駐車場賃貸借契約の保証金三万七五〇〇円の返還請求及び右金員に対する右合意解約の後である同年二月一日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金

二  前提事実(いずれも、原告の主張に対し、被告は明らかに争わない。)

1  原告と被告とは、平成六年六月一六日、神戸市東灘区御影塚町二丁目一七番八号所在の誠マンション(以下「本件建物」という。)の三〇三号室(以下「本件居室」という。)につき、概ね次の条項による賃貸借契約を締結した。

当事者 貸主は被告、借主は原告

保証金 金一〇〇万円

賃料 月額金八万円

共益費 月額金五〇〇〇円

期間 二年

2  原告と被告とは、右同日、通称「第一岡田ビルの西南区画」(以下「本件駐車場」という。)につき、概ね次の条項による賃貸借契約を締結した。

当事者 貸主は被告、借主は原告

保証金 金七万五〇〇〇円(ただし、本件駐車場の明渡時に金三万七五〇〇円を控除し、残金三万七五〇〇円を被告が原告に返還する。)

賃料 月額金二万円

3  原告は、被告に対し、右同日、本件居室の賃貸借契約の保証金一〇〇万円及び本件駐車場の賃貸借契約の保証金七万五〇〇〇円を預託した。

4  原告は、被告に対し、平成六年一二月末日までに、平成七年一月分の本件居室の賃料金八万円、同共益費金五〇〇〇円を支払った。

5  平成七年一月一七日に発生した阪神・淡路大震災により、本件建物は、相当の被害を受けた。

三  争点

本件の主要な争点は次のとおりである。

1  阪神・淡路大震災により、本件建物が滅失したか。

2  本件居室の賃貸借契約はすでに終了しているか。終了しているとすれば、いかなる事由により終了したか。

3  本件駐車場の賃貸借契約はすでに終了しているか。終了しているとすれば、いかなる事由により終了したか。

4  被告が原告に返還すべき保証金につき、控除されるべき金額が存在するか。

四  争点に関する当事者の主張

1  原告の主張

(一) 事実の経過

(1) 本件建物は、阪神・淡路大震災により、柱が曲がり、建物全体が傾き、その一画が完全に崩れ、居住することが不可能な状態になった。そして、原告は、阪神・淡路大震災後、身の回りの品物のみを持って、直ちに本件建物から避難した。

(2) 原告は、平成七年一月二四日、本件建物の前で被告の妻と出会った。この時、被告の妻は、本件建物を解体することを前提に、これを解体するときには原告に連絡する旨述べていた。

(3) 被告は、同月二九日、原告と電話で話をした際、必要な荷物を本件居室から持ち出すよう指示した。

(4) 原告は、同月三〇日、本件居室から、衣類等携帯可能な品物を持ち出した。なお、(1)記載の本件建物の状況下では、それ以外の物を本件居室から搬出することは事実上不可能であった。

また、原告は、本件駐車場に自己所有車両を駐車していたところ、隣地建物からの落下物のため、同車両を移動させることが不可能であった。

(5) 原告は、右同日、被告と直接会って、保証金全額の返還を求めたが、被告はこれを拒否した。そこで、原告は、円満解決のため敷引きの話もしたが、被告は解決に応じるとも応じないとも確答しなかった。

また、この時、原告は、被告に対し、本件居室内に残存している家財道具一切の所有権を放棄する旨伝えた。

さらに、この際、被告は、本件駐車場の賃料につき、隣地建物からの落下物の処理が済むまでは支払は不要である旨述べた。

(6) 原告は、同年二月三日、被告に対し、電話で、保証金の返還を求めるとともに、右返還をなすべき原告の銀行口座を通知した。

(7) 原告は、同月一三日、本件駐車場から自己所有車両を移動した。

(8) 原告は、同年三月七日、本件の原告訴訟代理人を代理人として、被告に対する内容証明郵便において、本件居室の保証金全額の返還を求め、右内容証明郵便は、同月九日、被告に送達された。なお、同月一〇日、原告訴訟代理人が被告と電話で話をしたところ、被告は右金員の返還の猶予を求めるとともに、本件居室に残存する家財道具類の処分の同意書並びに本件居室及び本件駐車場の鍵の返還を求めた。

(9) 原告と被告とは、同月一二日ころ電話で話をし、被告は、本件居室の保証金から敷引き三割を控除した残額を返還する旨の提案をした。しかし、原告はこれを了解することができなかった。

(10) 原告は、被告に対し、同月二三日、本件訴訟代理人を通じ、本件居室に残存する家財道具類の処分の同意書並びに本件居室及び本件駐車場の鍵を郵送で返還した。

(二) 争点1(本件建物の滅失)及び争点2(本件居室の賃貸借契約の終了事由)

本件建物は、阪神・淡路大震災により滅失した。

したがって、本件居室の賃貸借契約は、平成七年一月一七日、当然に終了した。

(三) 争点3(本件駐車場の賃貸借契約の終了事由)

阪神・淡路大震災により、本件駐車場も利用不能の状態におちいった。

そこで、原告と被告とは協議し、平成七年一月三〇日、本件駐車場賃貸借契約を合意解約した。

(四) 争点4(保証金からの控除)

本件居室の賃貸借契約に関する契約書には、天変地異によって右賃貸借契約が終了したときは、被告は、原告に対し、保証金全額を返還する旨の記載がある。

また、被告が主張する本件居室及び本件駐車場の賃料、賃料相当損害金は、そもそも発生していない。

2  被告の主張

(一) 争点1(本件建物の滅失)

本件建物は、阪神・淡路大震災により相当の被害を受けたものの、未だ滅失したとはいえない。すなわち、本件建物は、阪神・淡路大震災後の余震にもかかわらず現存しており、修繕可能な状態であって、現に、被告は、本件建物の修繕を計画中である。

(二) 争点2(本件居室の賃貸借契約の終了事由)及び争点3(本件駐車場の賃貸借契約の終了事由)

争点1について述べたように、本件建物は、阪神・淡路大震災により滅失したとはいえない。したがって、本件居室の賃貸借契約は、未だ終了していない。

なお、原告が本件居室及び本件駐車場の賃貸借契約を解約したいのであれば、当初の契約どおりに、一月以上の予告期間を置いて、所定の書面により解約の申入れをすべきである。

(三) 争点4(保証金からの控除)

原告は、本件居室内から必要な家財道具、衣服等を持ち出したが、なお、不要な家財道具類を放置し、所定の解約手続をとらずに本件居室を占有している。

したがって、本件居室の賃貸借契約の保証金から所定の三割の敷引きがされた上で、未払賃料又は本件居室を倉庫代わりに原告が使用していることによる賃料相当損害金を控除すべきところ、未払賃料等を控除すると、被告が原告に返還すべき金員はない。

第三  争点に対する判断

一  争点1(本件建物の滅失)

1  賃貸借契約の目的物たる建物が滅失したときは、当該建物の賃貸借契約は当然に終了する。そして、建物が滅失したかどうかの判断にあたっては、物理的に建物の主要な部分が消失したかどうかだけではなく、消失した部分の修復が通常の費用では不可能と認められるかどうかをも考慮して、決せられるべきである(最高裁昭和三一年(オ)第二二五号同三二年一二月三日第三小法廷判決・民集一一巻一三号二〇一八頁、最高裁昭和四一年(オ)第六八七号同四二年六月二二日第一小法廷判決・民集二一巻六号一四六八頁、最高裁昭和四三年(オ)第八一二号同年一二月二〇日第二小法廷判決・民集二二巻一三号三〇三三頁等参照)。

2  甲第五号証、検甲第一ないし第七号証、第一〇ないし第一五号証、乙第四ないし第七号証、原告及び被告の各本人尋問の結果を総合すると、本件建物は、阪神・淡路大震災により、一階部分の柱が建物内部で折れ曲がり、垂直に建っているのではなく傾いた状態になったこと、にもかかわらず、二階ないし四階は、建物の躯体部分にほとんど被害が生じていないこと、本件建物は既に取り壊されてしまったところ、右取壊費用に約一六〇〇万円を要したこと、あらためて本件建物と同じような規模の建物を建てようとすると金二億円以上を要すること、本件建物の一階部分のみの解体及び修復も技術的には可能であって、複数の業者から金三〇〇〇万円ないし金三三五〇万円とする見積書が出されていたこと、右修復工事に要する工期は約七五日間であると予定されていたことが認められる。

そして、これらの事実によると、本件建物の主要な部分は、一階の躯体部分の一部を除いては未だ消失しておらず、右消失部分の修復も、建物全体を取り壊す費用及び建物全体を建て替える費用と比較した場合、通常の費用で可能と認められるから、本件建物は、阪神・淡路大震災により滅失したとはいえないと解するのが相当である。

なお、弁論の全趣旨によると、本件建物は全壊した旨の神戸市発行のり災証明書があることが認められるが、このことは右判断を左右するものではない。

二  争点2(本件居室の賃貸借契約の終了事由)

1  甲第五号証、原告及び被告の各本人尋問の結果によると、平成七年一月三〇日、原告が被告に対し、本件居室の賃貸借契約の保証金一〇〇万円の返還を請求したことが認められる。

そして、甲第一号証によると、本件居室の賃貸借契約にあたっては、借主は契約期間中であっても、一月間の予告期間をおくことによって、自由に解約の申入れをすることができる定めとなっていることが認められ、右保証金返還の請求は、当然に、本件居室の賃貸借契約解約の申入れの趣旨を含んでいるものと解されるから、本件居室の賃貸借契約は、原告からの右解約の申入れにより、右申入れの日から一月を経過した平成七年二月二八日の経過(民法一四三条二項但書)をもって終了したと解するのが相当である。

2  これに対し、被告は、原告が所定の書面による解約申入れをしていないから、本件居室の賃貸借契約は未だ解約されていない旨主張する。

しかし、本件居室の賃貸借契約において、借主からの解約申入れが所定の書面によることとされているのは、これにより確実な証拠を残し、後日の紛争を未然に図る趣旨であると解されるところ、本件において、被告は、平成七年一月三〇日に原告から保証金返還の請求があったことを自ら認めているのであるから(被告本人尋問の結果)、口頭による原告の解約申入れも有効であると解するのが相当である。

3  なお、原告は、争点2に関し、本件居室の賃貸借契約は、本件建物が滅失したことにより当然に終了した旨主張するのみで、右解約申入れによる終了を明示的に主張しているわけではない。

しかし、前記のとおり、平成七年一月三〇日、原告が被告に対し、本件居室の賃貸借契約の保証金一〇〇万円の返還を請求したことを、原告は明示的に主張している。そして、原告からの解約申入れ後一月間の経過により本件賃貸借契約が終了した旨の右認定は、右原告主張事実を法律要件として、本件居室の賃貸借契約の終了という法律効果の有無を判断したものにすぎないから、右認定は、民事訴訟における弁論主義に反するものではない。

三  争点3(本件駐車場の賃貸借契約の終了事由)

1  甲第五号証、原告及び被告の各本人尋問の結果によると、平成七年一月三〇日の原告と被告との話し合いの際、被告は、隣地建物からの落下物の処理が済むまでは本件駐車場の賃料を支払う必要がない旨述べたこと、原告が本件駐車場から自己所有車両を持ち出したのは同年二月一三日であることが認められるが、他方、甲第三号証の一及び二によると、平成七年三月七日付の原告代理人から被告への内容証明郵便には本件駐車場のことは一言も触れられていないことが認められ、この頃までに本件駐車場の賃貸借契約の解約について、原告と被告との間で何らかの合意が成立したり、右認定以外の何らかの通知がなされたりしたことを認めるに足りる証拠は存在しない。

そして、甲第四号証の一ないし五、第五号証、原告本人尋問の結果によると、被告からの本件駐車場の鍵の返還請求に対し、平成七年三月二三日、原告がこれに応じる郵便物を発送したことが認められ、これによると、民法五二六条一項の類推適用により、右同日、本件駐車場の賃貸借契約の解約が合意されたと認めるのが相当である。

2  なお、右認定が、民事訴訟における弁論主義に反するものではないことは、争点2に対する判断(二3)で述べたところと同様である。

四  争点4(保証金からの控除)

1  保証金

前提事実に記載のとおり、本件居室の賃貸借契約に伴って差し入れられた保証金は金一〇〇万円であり、本件駐車場の賃貸借契約に伴って差し入れられた保証金のうち、被告が返還すべき金額は金三万七五〇〇円である。

2  本件居室の保証金の敷引き

(一) 甲第一号証、第五号証、原告及び被告の各本人尋問の結果によると、本件居室の賃貸借契約の終了にあたっては、被告が原告から預かった保証金一〇〇万円のうち金三〇万円を控除して、残金七〇万円を被告が原告に返還する旨の約定があったことが認められる。

(二) この点に関し、原告は、本件居室の賃貸借契約に関する契約書(甲第一号証)には、天変地異によって右賃貸借契約が終了したときは、被告は、原告に対し、保証金全額を返還する旨の記載があるから(一二条一項、二項)、敷引きを行うべきではない旨主張する。

しかし、争点1に対する判断で判示したとおり、本件居室の賃貸借契約は、本件建物の滅失により当然に終了したのではなく、被告からの解約申入れにより終了したのであるから、右条項を適用する前提を欠いている。

しかも、次に述べるように、本件居室の賃貸借契約成立の時に、原告と被告との間で、天変地異によって右賃貸借契約が終了したときは保証金全額を返還する旨の合意が成立したことを、直ちに認めることはできない。

すなわち、被告本人尋問の結果、弁論の全趣旨によると、本件建物は八戸からなり、いずれも賃貸借契約に供されていること、本件建物の各戸の賃貸借契約は、複数の仲介業者によって仲介されていること、それぞれの賃貸借契約は、それを担当した仲介業者の用意した賃貸借契約書を利用してされていること、各賃貸借契約において、家賃、敷金の金額は共通であるが、天変地異の際の敷金返還については、全額返還すると記載されているもの、全額返還しないと記載されているもの、何も記載されていないものがあって、阪神・淡路大震災の後、貸主である被告としては、賃借人間の不公平を感じ、対策に苦慮していたことが認められる。さらに、原告本人尋問の結果によると、原告は、阪神・淡路大震災の直後は、本件居室の賃貸借契約書の敷引きの記載がどうなっているかを知らず、平成七年一月三〇日、本件居室内で右契約書を発見し、右条項の存在を初めて知ったことが認められる。また、甲第一号証によると、右契約書においては、判りやすい場所に大きな文字で、賃貸借契約条件として、保証金一〇〇万円、退去時控除額金三〇万円という表示がされているのに対し、天変地異によって右賃貸借契約が終了したときは保証金全額を返還する旨は、非常に小さな字で多数の条項が記載されている中にあることが認められる。

そして、右各認定事実に照らすと、甲第一号証の記載のみをもって、本件居室の賃貸借契約成立の時に、原告と被告との間で、天変地異によって右賃貸借契約が終了したときは保証金全額を返還する旨の合意が成立したことを推認することはできない。

(三) ところで、神戸市をはじめとする広い地域において、慣習として、賃借権の譲渡及び転貸借の禁止されている居住用建物の賃貸借契約の中で、月額賃料の一〇倍を超える敷金又は保証金の授受が行われることが多いこと、右敷金又は保証金は無利息で貸主が預かるとされていること、この場合、契約更新にあたっては更新料の授受は行われないこと、賃貸借契約終了の時に、未払賃料等借主の貸主に対する債務を控除する他に、当然に、右敷金又は保証金の三割前後の金員を控除すると定められることが多いこと、借主の故意重過失に基づく建物の損傷を除き、通常の使用に伴う建物の修繕に要する費用は、建物賃貸借契約終了時には別途精算されることがないことは、いずれも当裁判所に顕著である。

そうすると、右敷引きされる金額は、賃貸借契約成立の謝礼、賃料を相対的に低額にすることの代償、契約更新時の更新料、借主の通常の使用に伴う建物の修繕に要する費用、空室損料等、さまざまな性質を有するものが渾然一体になったものとして、当事者間で、これを貸主に帰属させることをあらかじめ合意したと解するのが相当である。

そして、右慣習にはそれなりの合理性が認められ、それ自体を公序良俗に違反するとすることは到底できないから、右当事者間の合意は、最大限尊重されるべきである。

したがって、一般的に、建物の修繕が不要な場合には敷引きの規定は適用されないとする見解(大阪地裁平成六年(ワ)第五四〇九号同七年二月二七日判決・消費者法ニュース二三号四七頁等)は、当裁判所のとるところではない。

また、契約期間が満了する前に、貸主及び借主の双方の責めに帰さない事由によって賃貸借契約が終了する場合には、例外的に、貸主は、敷引きの約定の金額のうち、約定期間中の残存期間に対応する分の返還を拒むことができないとする見解がある。

しかし、右に述べたように、敷引きされる金額は、さまざまな性質のものが渾然一体になったものであり、これを期間のみで按分する根拠に乏しい。そして、当事者間の右合意の存在及び右合意の合理性をも併せ考えると、賃貸借契約直後に天変地異があったなど借主が賃貸借契約締結の目的を全く達成していないと認めるに足りる特段の事情のない限り、貸主及び借主の双方の責めに帰さない事由によって賃貸借契約が終了する場合には、敷引きされることを予定されていた金額は、すべて貸主に帰属すると解するのが相当である。

そして、本件においては、前提事実に記載のとおり、本件居室の賃貸借契約が成立したのは平成六年六月一六日であって、被告は約七か月間本件居室を使用収益しており、賃貸借契約の目的を全く達成していないと認めるに足りる特段の事情の存在は認められない。

したがって、本件居室の保証金の敷引きとして、金三〇万円が控除されるべきである。

3  未払賃料

建物又は土地の賃料は、当該建物又は当該土地の使用収益する対価であるから、借主の責めに帰さない事由によって、借主が当該建物又は当該土地を客観的に使用収益することができなくなった場合には、その使用収益することができない程度に応じて、借主の賃料支払義務の全部又は一部が免除されると解するのが相当である。

本件においては、本件居室は本件建物の三階に位置するところ、争点1に対する判断で判示したとおり、本件建物は、一階部分の柱が建物内部で折れ曲がり、垂直に建っているのではなく傾いた状態になったことが認められるから、原告が本件居室を客観的に使用収益することができない状態になったというべきである。

なお、甲第一号証、原告及び被告の各本人尋問の結果によると、本件居室の賃貸借契約は居住を目的として締結されたものであることが認められる。したがって、本件居室内には家財道具類が残されているが、原告は本件居室に居住することができなくなったのであるから、原告は本件居室の使用収益の全部をすることができなくなったものであり、原告は、平成七年一月一八日から本件居室の賃貸借契約の終了した同年二月二八日(争点2で判示)までの賃料のすべての支払義務を免除されると解するのが相当である。

また、本件駐車場については、争点3に対する判断で判示したとおり、被告の明示の意思表示により、遅くとも平成七年一月三〇日以後の賃料の支払義務は免除されたことが認められるところ、その後、原告が本件駐車場を再び使用収益することができるようになった旨の主張はない。

4  賃料相当損害金

(一) 争点2に対する判断で判示したとおり、本件居室の賃貸借契約は、平成七年二月二八日の経過をもって終了した。

そして、甲第五号証、検甲第一七、第一八号証、原告及び被告の各本人尋問の結果によると、平成七年三月一日以降も本件居室内には原告所有の家財道具類が残されていたこと、本件建物は平成七年七月一六日に完全に取り壊されたことが認められる。

したがって、平成七年三月一日から七月一六日までの期間は、原告は、何らの権限なく本件居室内に自己所有の家財道具類を残置することによって、本件居室を占有していたということができるから、これにより被告に損害が発生していた場合には、被告は、原告に対し、不当利得返還請求権に基づき、賃料相当損害金を請求することができるというべきである。

なお、原告は、被告に対し、平成七年一月三〇日、本件居室内に残存する家財道具類の所有権を放棄する旨の意思表示をした旨主張する。しかし、右意思表示は、被告が右家財道具類を処分しても原告はこれに異議を述べないという趣旨のものと解され、原告により一方的にこのような内容の意思表示がされたからといって、原告が当然に右家財道具類の所有権を喪失するわけではなく、したがって、原告は右家財道具類の撤去義務を免れるものではない。

したがって、原告の右主張を採用することはできない。

(二) そこで、右期間内の被告の損害の有無を検討すると、前記のとおり、本件建物は大きく傾いたことが認められ、本件居室は、居住はもとより、倉庫として他に貸すことも不可能であったと解されるから、被告に賃料相当損害金が発生したとは考えられない。

したがって、この点に関する被告の主張は理由がない。

五  小括及び遅延損害金の始期

以上の検討によると、原告の主張は次の範囲で理由がある。また、それぞれの金員の遅延損害金の始期は次のとおりである。

1  本件居室の保証金の返還

被告は、原告に対し、本件居室の保証金一〇〇万円から敷引き金三〇万円を控除した金七〇万円を返還すべきである。

なお、甲第一号証によると、借主である原告が本件居室を明渡した後一月を経過することによって、右保証金の返還時期が到達することが認められる。そして、前記のとおり、原告は家財道具類の撤去義務を履行しておらず、平成七年七月一六日の本件建物取壊しの時に、本件居室の明渡義務を履行したとすることができるから、右保証金の返還時期は、同年八月一六日である。

したがって、本件居室の保証金の返還に関する原告の請求は将来の給付請求となるが、本件に現れた一切の事情によると、原告があらかじめこれを請求をする必要性があることは明らかである。

また、被告は、解約手続後一月の経過により敷金を返還する旨の明示の主張をしており、右遅延損害金の始期の認定は、民事訴訟における弁論主義に反するものではない。

2  前払賃料及び共益費

本件居室の前払賃料及び共益費のうち、平成七年一月一八日から同月末日までの期間に相当する金額は、次の計算式により、金三万八三八七円(円未満切り捨て。)である。

そして、前記のとおり、右期間、本件居室を使用収益することは客観的に全く不可能な状態にあったから、原告は、被告に対し、右金額を不当利得返還請求権に基づき請求することができる。

ところで、不当利得返還請求については、受益者が善意である場合と悪意である場合とで返還を要する範囲が異なるところ、本件においては、前提事実に記載のとおり、被告が右金員を受領したのは平成六年一二月のことであるから、被告がその当時悪意でなかったことは明らかである。そして、不当利得返還請求における受益者の悪意は、返還請求をする者が立証責任を負うから、原告の主張する平成七年一月一八日からの遅延損害金の主張を認めることはできない。

また、このように、受益者が受益当時に善意である場合には、受益者が不当利得返還請求を受けた日の翌日から遅延損害金が発生するものと解されるところ、本件においては、右請求の記載された訴状が被告に送達されたのが平成七年四月六日であることは当裁判所に顕著である。そして、本件全証拠によっても、これ以前に原告が被告に前払賃料等の請求をしたことを認めることはできない。

したがって、遅延損害金の始期は、平成七年四月七日である。

3  本件駐車場の保証金の返還

本件駐車場につき、被告が原告に返還すべき金員は金三万七五〇〇円であり、これから控除すべき金員は存しない。

また、乙第八号証によると、右金員の返還時期は特に定められていないことが認められるから、右金員の返還時期は、本件駐車場の賃貸借契約終了時で、原告が本件駐車場を被告に明渡した後であるとするのが相当である。

そして、前記のとおり、本件駐車場の賃貸借契約終了時は平成七年三月二三日であること、この時点では、原告は被告に対して本件駐車場を既に明け渡していたことが認められるから、遅延損害金の始期は、平成七年三月二四日である。

第四  結論

よって、原告の請求は、主文第一、第二項記載の限度で理由があるからこの範囲で認容し、その余は理由がないから棄却し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条、九二条本文を、仮執行宣言につき同法一九六条一項をそれぞれ適用して、主文のとおり判決する。

(裁判官永吉孝夫)

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